日本の伝統である『家紋』は現在25,000個以上、その存在が確認されており、発祥は公家と武家で異なります。
【公家の場合】
1.貴族の車である牛車(ぎっしゃ)に描かれていた文様が転じて家紋になったケース。
2.きものなどに描かれていた文様が転じて家紋になったケース。
3.記念的な意義に基づき定められたケース。
現在確認されている最古の家紋は平安時代の後期、1032年から1091年の間に作られた『巴紋』で、 これは車の文様が家の紋になったと『春宮大夫公実卿記(とうぐうだいぶこうきょうき)』に記されています。 車の文様だったもの以上に多かったのが2番の、きものの文様から転じた家紋です。 『藤』『龍胆』『片喰』『楓』『銀杏』『鶴』などの家紋はすべて衣類の文様として生まれました。 3番の記念的意義とは、ご先祖様が桜を好んでいたので桜をかたどった文様を家紋として定めたなど 出来上がっている文様を家紋にしたのではなく、意味合いやモチーフを決め家紋を制作していったというケースです。
【武家の場合】
1.闘いの場で使用されていた旗や幕に描かれていた印が家紋に転じたケース。
2.鎧などの文様が転じて家紋になったケース。
3.記念的な意義に基づき定められたケース。
武家における最古の家紋は源氏の『龍胆』、平家の『蝶』という説が一般的なのですが、文献『源平盛衰記』からみると有吊な治承・寿永の乱(1180年から約10年)、俗に言う源平合戦の時、 源氏は白、平家は赤という紅白の旗のみで家紋を使っていたという記述がありません。 よって武家の家紋が生まれたのは公家よりも遅く、鎌倉時代に入ってからだと思われます。
以下は過去に家紋研究をされていた方々の説です。
【説1:山鹿 素行(やまが そこう1622年-1685年)氏の解釈】
旗に家紋を描いたのは聖徳太子(604年頃)の時。(しかしこれは玄武旗や百虎旗の類であり、家紋とは言えない) 武家が家の目印を旗に描くようになったのは源頼朝(1109年頃)の時。
【説2:新井 白石(あらい はくせき1657年-1725年)氏の解釈】
紋は蓋と公家の車が発祥である。
【説3:伊勢 貞丈(いせ さだたけ1718年-1784年)氏の解釈】
武家の紋は旗幕の目印が発祥である。(1150年頃)。
【説4:生田目 経徳(なまため つねのり)氏の解釈】
家紋の発祥は上古の品部制度(しなべせいど)の時代。
平安朝の初期(800年頃)。
【説4:沼田 頼輔(ぬまた らいすけ)氏の解釈】
公家と武家で発祥は異なる。公家の家紋は鎌倉時代に車の文様から転じたものが多くあるが、それ以上に衣?の文様から家紋に転じたものが多い。その他、先祖の好んだ?物を家紋にするなど記念的意義に基づき、出来あがった家紋もある。武家の家紋は主に旗や幕の記章として起こったものが多く、公家の家紋のように衣?の文様から転じたものもある。
時代による家紋の変化
【鎌倉時代】
鎌倉幕府の開府後、公家は武士により政権から遠ざけられ主役の座から下ろされると、 家紋においても歴史に残る記録もなく、表面にあらわれることがなくなりました。奥羽の役(1189年)、承久の乱(1221年)、文永、弘安の役(1274・1281年)など戦乱が相次ぎ、 武家の家紋は旗や幕に用いられ当時の人々の目にも触れ、また必要性も増してきました。 鎌倉中期になると鎌倉幕府の武士はみな自分の家紋を持ち、全国的に用いられるようになり、 鎌倉末期になると家紋は旗のみではなく、兜や鎧などにも付けられました。
【室町時代】
室町時代になると家紋は軍事上ますます必要性が高まっていき、社会的に重要な意味を持つようになりました。 室町後期の戦国時代、形は写実的なものから変化していき現在の家紋に近く紋章的になっていきました。 応仁の乱(1467?1469年)以後は旗の他に幟(のぼり)にも用いはじめ、さらに元亀年代(1570?1573年)になると 馬標(うまじるし)・指物・柄弦(えつる)・幌(ほろ)などにも家紋を描くようになりました。
【徳川時代】
徳川時代は家紋がもっとも脚光を浴び広まった時代です。長い戦乱が終わり平和が訪れると家紋も戦時的な使用から平和的な使用に変わりました。 この時代には各大吊や、その家臣達は裃(かみしも)を着るようになり、その裃の 3箇所、5箇所に家紋を描くので必然的に家紋は紋章化し、形も対称的になりました。 また、紋に丸を付けることもこの時代に多くなりました。
【元禄時代】
この時代は平和で華やかで、人々は生活を楽しみ美しい衣装を競い合い驕奢な風習が蔓延しました。 家紋もこの頃になると従来の儀礼的・社交的な意味から装飾用に用いられるようになりました。 庶民においても武家の紋を真似たり自分の好みの紋を作ったりしたので奇抜な紋ができ、紋の数も著しく増加しました。 新しい家紋も多数生まれ、もっと人々に親しまれた時代ではありましたが、徳川家の葵紋の使用は厳しく禁じられ、 使用者は厳罰に処せられました。多くの書籍で『家紋が乱れた時代』という表記がみられますが この時代は一家に一個という大きな「家紋文化《を生んだ、今日の日本の家紋文化にとってもっとも 重要な時期だったのではないかと私は考えています。
【明治時代以降】
明治維新後になると家紋においても変化が見られます。 菊紋は皇室の権威回復とともに光芒を放ち、葵紋は地に落ちました。 明治元年3月28日の『太政官布告第195号』で皇族以外の菊花紋の使用を禁止、 さらに翌2年には皇室の紋は16弁八重の表菊と決定されました。 太平洋戦争が終わると民主主義の波が押し寄せ、新憲法ができ、家族制度が廃止され、 これにより家のしるしとされてきた家紋は封建的な遺物という観念から誰も関心を示さなくなりました。
家紋はこのように家族制度の崩壊とともに衰退してしまいましたが、文化的・芸術的資産として 改めて見直す必要があると考えている人達も多く出てきています。